バイリンガルMC・通訳・ナレーション・ボイスオーバー・翻訳。日英バイリンガルでのトータルコミュニケーションサービスを提供。        

パーソナルヒストリー


●幼少時代〜高校時代
住友玲子(すみとも りょうこ)、という名前ですが、個人名で「住友」というのは、なかなか珍しく思われることが多い苗字です。
名前も、今までの人生の中で、この漢字を見ただけで正しく「リョウコ」と読んでくれた方は両親、親戚以外に誰一人としていません。
父親が「りょうこ」という呼び名が気に入っていて、だけど、「玲子」という漢字も字画上、気に入っていて、くっつけた、、とか?むか〜しの辞書とか東洋漢字辞典?などには一応、「玲」=「りょう」での読みと意味も掲載されているとか、、、。 詳しいことはわかりませんが、自分では気に入っています。
苗字を見ただけでかつてはよく、住友一族のご令嬢ですか、とよく聞かれますので、「はい、そうです。」と無条件にお返事をしています。(本当の住友一族の方々、ごめんなさい!)。
父親は北海道出身、母親は九州種子島出身と南北両端出身の2人が大阪で出会い、結婚後、東京に引っ越してきて私が生まれました。
A型ですが、几帳面でもなく、割とおおざっぱで、細かいことは気にしませんし、イヤなことはすぐに忘れるタイプです。 楽天的で前向きで、鉄砲玉のような性格ゆえ、石橋を叩いて渡る、ということを滅多にしません。それゆえ、やりたい!と思ったら即行動に移してしまうことが多いため、失敗も多いです。
普通に地元の公立小学校、中学校に進み、小学校のときには割とポッチャリ体型で走るのが苦手で、「ドンケツ」と男の子たちにからかわれていたのを、今でもよく覚えています。中学時代には体型がすっきりしたのは良かったのですが、今度は生活面が乱れてゆき、いわゆる「不良」生徒でした。とは言え、見た目だけのワルで、今覚えば、なんともショボイ不良だったと思います。このままではホントウのワルになる、と親も危機感を感じたのでしょう。私立高校への進学を勧められて受験するも、本命は全て不合格。すべり止めとして受験していた高校に唯一合格し、そこに通うことになります。
目白学園女子高等学校(現: 目白研心高等学校) 在学中、夏休みを利用して初めてアメリカ、ロスアンジェルス(当時、2歳年上の兄が住んでいた場所)郊外のサンフェスナンドバレーへホームステイ経験。
アメリカの自由奔放、大胆な発想、生活スタイルが気に入り、その後、高校3年間の夏休み、冬休みはLAの兄の家に押しかけ滞在でアメリカナイズされてゆきます。
●大学時代

上智大学比較文学部を3回受験するが3回共不合格。(同じ時期にアメリカンスクールで受験していた早見優ちゃんはその年見事に合格していました、笑)。最終的に、推薦入学で桜美林大学文学部英語英米文学科へ進学。
大学在学中、仲の良い友人たちは優等生ばかりで、3年のときに次々と交換留学生として海外の大学へ留学していったが、私は、と言えば、遅刻常習犯だったため、優秀な成績を収めることができず、留学候補の可能性はほぼゼロ。
結局、のらりくらりと、東京六本木辺りの踊場(当時はディスコと呼ばれておりました)、に通いつめ遊んで暮らした4年間でした。
留 学はできなかったものの、大学の長期春休み、夏休み、冬休みを利用し、バイトで貯めたお金でまたまたLA在住中の兄の家に押しかけ、サンタモニカカレッジ などで夏休みのサマーセッション講座などを受講しながら、アメリカナイズされてゆきました。 その頃のいわゆる「行ったり来たり」で、現在の英語力の基盤が作られた、と、思われます。
平行して大学在学中、ふとしたきっかけで東京アナウンスアカデミーに入学。密かにアナウンサーへの道を希望していたのかな?基礎科、研究科、ナレーション科を修了。
就職の時期には、東京民放局4,6,8,10,12チャンネルをはじめ、北は北海道、福島、南は鹿児島テレビに至る地方局もアナウンサー志望として受験するが、(当たり前のように)ことごとく全敗。

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●社会人初期

大学卒業後、すぐには就職をせず、プロダクションに所属してナレーターとしての第1歩を踏み出す。
し かし、来る仕事といったら、展示会、イベントの司会ばかり。それも、過酷な原稿の暗記(一番多かったときでA4サイズ30枚)、プロダクションのマネー ジャーの横柄な態度(私たちナレーターをあくまでも商品として扱う粗雑さ)に辟易し、私が目指していた話し手とはこんなモノなのか!と現実と創造していた 世界とのギャップに悩む日々。
結局、マネージャーと相性が合わず、当時所属していたプロダクションを脱退。生計を営んでゆくために、とりあえず派遣社員として建築企画事務所で企画を担当しながら、ナレーターとして、話し手としての自分の可能性を模索することに。
2年間、建築企画事務所で働いた後、過酷過ぎる労働とバブル崩壊による減給、ボーナスの現物支給などの会社からの対応により退社を決意。24歳頃のことです。その頃、東京アナウンスアカデミー時代にお世話になっていた講師が「コミュニケーションクラス」を開催していることを知り、見学に。
そ こで、自分が目指してきた話し手という職業に対する不安、その当時の自分が本当は何をしてゆきたいのか、という疑問をスパッ!と目からうろこが落ちるよう に ひも解いてくれたコミュニケーションクラスがすっかり気に入り、自己改革のためにその後しばらく、講師との再会を喜び、受講を始めます。
再 びもう一度、ボイスレッスンから魅力のある話し手としての訓練を受け、ナレーター時代に身についてしまった「ヘンな、いかにも、ナレータです!」という喋りを改 善してもらい、その成果あって、結果ボイストレーナーとして、また、最終的にはコミュニケーションインストラクターとして、恩師のサブアシスタントになる までになりコミュニケーションクラスのインストラクターとしての活動が加わりました。
魅力的な自分になることが魅力的な話し手の第一歩であることに気づいたあたりから、当時所属していたプロダクションや人づてで仕事が入ってくるようになります。大学卒業後に感じたギャップはもうそのときは感じることもなく、改めて、「話し手」として再出発をした時期でした。 26歳頃のこと。
それでも、それだけで生計を営むには程遠いため、自称、自由業という感じでそこからの数年間は本当に様々な業種を経験しました。日本に帰国した兄と共同でアメリカアイダホ州のツアー企画を運営したり、国内イベント企画運営スタッフとしてキャンプイベントなどの開催を手伝ったり、兄の会社の手伝いでアンティーク輸入自動車の通関業務や、国内オークションでのセリ参加、、パン屋さんでアルバイトをしたりもしていましたし、とにかく何でもやっていました。

その合間に、車のオークションやお花オークションのアナウンスをしたり、その当時流行っていた合コンパーティー(今でいう婚活パーティーの先駆けのようなもの)のMCをしたり、アイダホ州ツアーの仕事の延長線上でCSテレビ番組のレポーター、通訳として依頼を受けたり、話す仕事も営業を兼ねて細々とですが活動していました。
いま思えば、この頃に体験した様々な世界の様々な事柄全てが今の私を作り上げ、感性を豊かにし、人間として大きく成長していった時期でもありました。

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●社会人後期〜現 在

自由業を営んでいた結果、ひょんな出会いで、あるイベント企画会社を紹介され、そこが企画するハワイでの大きなイベントにバイリンガルMCを依頼されました。これが、今日の住友玲子をバイリンガル・マルチコミュニケーターとして築き上げた大きなきっかけとなる仕事でした。
その後数年間、そのイベント企画会社からの依頼で何度となくハワイに出向き、またオーストラリアなどでもバイリンガルMCとして活動し、その他からもバイリンガルMCとしての依頼が増えてくるようになります。
そこで、同じ話し手でも、日本語としてのアナウンス技術も身につけ、さらに英語でのナレーション、MC技術も身につけて2ヶ国語を同じ技術で司会者とし て、エンターティナーとして、またあるときは通訳も兼務しながら進行できる「バイリンガル・コミュニケーター」として、自分を位置づけてゆくことに。
そのために、英語力をさらに極め、美しい日本語と同じくらい美しい英語を自分のものにするために、28歳頃からの2年間位、外資系IT企業に派遣社員として平日は勤務をし、翻訳、ローカリゼーション業務を担当。そして、週末は、主に米軍施設であるニュー山王ホテルで、当時独占的に、国際結婚式のバイリンガルMCとしてのキャリアを積みました。
この当時から、自らをバイリンガルMCと呼び活動はしておりましたが、そのほとんどはウェディング関係やビデオのナレーション等でした。 1999年、休暇で訪問したハワイ州モロカイ島で出会った青年との間に一児を設けましたが、入籍などは一切せず、シングルペアレントとして拠点を日本に置き、生活を続けることを決心。
同年から2000年冬ごろまでは実質、出産〜育児で仕事は休業。 それまでの数年間、藤沢に在住しており毎日、犬と共に海に出かけるのが楽しみでしたが、出産を機に実家で1年ほど両親と暮らしていました。
その間、バイリンガルMCとして現場復帰の道を模索しながら、細々と営業を続けながら、生計の基盤として、パソコンのインストラクターとしても活動。企業や個人向けにホームページを作成したり、パソコン(Windows)を教えていました。
また、それだけでは飽き足らず、出産前後、ハワイ州マウイ島に何度となく飛び、マウイ島、モロカイ島の自然、人々に心惹かれ、1999年冬から細々と立ち上げていたウェブサイトを正式にリニューアルして、2001年、Love MAUIオンラインショップとしてハワイアン直輸入雑貨の販売サイト起動。関連してハワイのモロカイ島を紹介する、Love MOLOKA'I観光案内サイトも立ち上げます。このとき、とにかく実家居候、という立場を利用して、ひたすらWEB制作知識を独学で習得しました。その後、実家を出て本格的にバイリンガルMCとして現場復帰を目指しつつ、ハワイの仕事も自分の軸となりつつあり、2004年、Love MAUI実店舗(現Aloha Crafts)を吉祥寺にオープンします。
実店舗を6年間ほど経営したのち、2009年秋、より自分の使命をきちんと世の中に還元してゆくために、ショップを一旦クローズ。 好きで始めたことでしたが、お店の店主になることが自分の最終目的地ではない、ということを改めて再認識し、バイリンガルMCとしての仕事に主軸をスライドしてゆきます。
現在は、モロカイ島情報提供、ハワイの本翻訳、バイリンガルコミュニケーターと、どれも自分としては「本業」として位置づけ、活動しています。
いずれもサービス業であり、人々を幸せな気持ちにさせることに変わりはなく、コミュニケーション能力が大いに問われる職種であり、全く異なる業種といえども、共通点は数多くあります。
また、全ての活動は、実は一見すると何のつながりもないように見えますが、実は、すべて同じ、つながっている、ということも実感しているが故、どちらかの職種に専念するのではなく、異なる業種、いずれもメインの柱として活動してゆくことが、現在の私にとってはほどよい刺激、そしてバランスであると考え、今後もこのスタイルを維持して活動してゆく予定です。

●語学力について、自身の体験を「マルチ言語化」と題してブログにて綴っています。語学力向上について興味のある方は読んでみてください。何かしらのヒント、きっかけになれば幸いです。
マルチ言語化 体験談〜その1 ・マルチ言語化 体験談〜その2 ・マルチ言語化 体験談〜その3 ・マルチ言語化 〜最終章

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